第152回講演会のお知らせ

「無名戦士の墓」から「八紘一宇の塔」へ~クロアティア―日本:社会のための芸術を夢みた彫刻家たち

日付: 2018年6月9日(土)
時間: 16:00 – 18:00
場所: 渋谷アイビスビル10階 (エレベータで9階へ上がり階段でお越しください)

講師:
越村 勲(こしむら いさお)氏
東京造形大学教授。研究テーマは、クロアティアなど東欧の社会・文化史。
著書・訳書:R・オーキー『東欧近代史』(勁草書房、1987年)、『東南欧農民運動史の研究』(多賀出版、90年)、Ph・E・モズリー『バルカンの大家族ザドルガ』(彩流社、94年)、D・ロクサンディチ『クロアティア=セルビア社会史断章』(彩流社、99年)、S・ノヴァコヴィチ『セロ――中世セルビアの村と家』(刀水書房、2003年)、『映画「アンダーグラウンド」を観ましたか』(彩流社04年)、新世界地理第10巻『ヨーロッパⅣ――東ヨーロッパ・ロシア』(朝倉書店06年)、『クロアティアのアニメーション』(彩流社、10年)、K・カーザー『ハプスブルク軍政国境の社会史』(学術出版会、13年)、『16・17世紀の海商・海賊-アドリア海のウスコクと東シナ海の倭寇』(彩流社、16年)。

概要:
・今回の講演の内容と趣旨:越村の近著『ウスコクと倭寇』は、16世紀に世界が結びつく中で、アドリア海と東シナ海で海賊と呼ばれた人々に光を当てる予定である。今回の講演はその近著の補論にあたり、20世紀のクロアティアと日本の芸術家が社会のための芸術という「夢」を分かち合ったことを確認し、それぞれがいかに異なった結末を迎えるか、そのターニングポイントはどこかを考えるものである。
 彫刻史や美術史ではなく、芸術思想の交流史であり、彫刻/美術と日本の社会との関係を後追う社会史である。

・三つの時期:(1)20世紀初めのウィーン分離派運動は社会に開かれた芸術を模索した。具体的に彫刻と建築を合わせて人々に見せることがそのテーマとされた。そしてこのテーマで作品を制作した代表的人物がイヴァン・メシュトロヴィチであり、その代表作が「セルビアの無名戦士の墓」である。かれとドイツ表現主義の芸術・建築は第一次世界大戦までに日本での紹介が始まった。
 (2)メシュトロヴィチとドイツ表現主義の影響は、第一次大戦直後の分離派建築会の創設、平和記念博によって増大し、1926年には彫刻家団体構造社が創設された。構造社は彫刻と建築の総合をうたった作品を共同で制作し展示した。
 (3)しかし日中戦争が始まって以降、構造社を脱会していた日名子実三は軍部との関係を強め、ついには1940年「八紘一宇の塔」を制作する。この塔の礎石は中国・南京などから集まられており、芸術作品でありながら政治的含意がきわめて深刻な作品になった。一方斎藤素巌は終戦とともに自己批判の作品を作り、その社会的発言も急速に減っていった。

・彫刻家たち:主な彫刻家は以下の四人だが、今日の日本ではほとんど知られていないメシュトロヴィチについて少し紹介しておく。今回のタイトルにある「無名戦士の墓」はそのメシュトロヴィチの作品。「八紘一宇の塔」は日名子実三の作品。いずれの作品も彫刻というよりも建築物といった方が正確かもしれない。
イヴァン・メシュトロヴィチ1883-1962
旧ユーゴスラビアの彫刻家。クロアチアのブルポーリェ村に生まれる。篤志家の援助を得て、17歳でウィーンに出、アカデミーでヘルマン・ヘルマーや建築家オットー・ワーグナーに学ぶ。とくに後者の影響を受け、分離派(ゼツェッション)運動に参加した。熱烈な愛国者で、彫刻と建築の統合を試みた記念像を多くつくり、「ユーゴのミケランジェロ」とうたわれた。・・・。
小学館 日本大百科全書(インターネット版)より
下掲の人名もご参照ください。
陽咸二(ようかんじ) 1898-1935
齋藤素巌(さいとうそがん) 1889-1974
日名子実三(ひなごじつぞう) 1893-1945